おいしさへのこだわりは「土佐のいごっそう」が生んだ軌跡。魚類養殖始まりの海といわれる野見湾から加工産業を地域ぐるみで発展されている株式会社みなみ丸森光社長にお話を聞きました。
高知県須崎市で生まれ育ち、幼少期から人生の荒波に揉まれた苦労人です。
複雑な家庭環境で育ち、「物心つくころから、あたりかまわず反抗し、悪さをしてきたき、今があるかな」と笑いながら話す森光社長の笑顔には、穏やかさと優しさが溢れています。
リアス式形状の地形に恵まれ、カンパチ養殖発祥の地と言われる野見湾。外洋の影響を受けにくく、一年を通して魚の成長に適した温暖な海域で養殖業が盛んな漁師町です。株式会社みなみ丸の拠点は小さな港に漁協が2つもある養殖業な盛んな地域で、高知県内では魚の加工業として、新たな産業を牽引してきました。
高校卒業後、地元の大谷漁協に就職をされ、地域に世話をかけた分、また中学生の時から地元の人のいろんな仕事を手伝ってきた事から、仕事に関しては人一倍意識は高く、魚、養殖、売買ノウハウを吸収することができたとおっしゃいます。
会社員時代に結婚後、幼少期に生活面で苦労してきたことから一念発起、脱サラし、養殖業加工業と飲食業を起業されました。
人生の絶頂期に落とし穴があるといわれるように、「上手い話には裏があるってことやね」今は笑えるけれど、当時は「ほんまに、きつうてね」と昔を振り返られます。
事業を辞めざるを得ない状況に陥りましたが、「もう一度」と覚悟を決め、かき集めた僅かな資金を持ち、コンビニで印刷した名刺とチラシを片手に上京され東京の有名ホテルに飛び込み営業をされたそうです。
「振り返ったら、あんなことようやったなと思う。今やったら恥ずかしゅうてできんね」と話されるように、片っ端から何十軒も飛び込み営業をかけたそうです。当時は紹介や実績もなく、飛び込み営業など取り合ってくれるところは無く、なけなしのお金は一か月で底をつき、一件の契約も取れないまま帰高されました。
1か月後、有名ホテルのシェフから一本の電話が入ったそうで、森光社長は期待に胸弾ませたのも束の間「あんな営業されたら迷惑だ!」と30分ほど電話で説教を受け、まさしく崖から突き落とされたような気持ちになったそうです。ですが、「みなみ丸」のシンデレラストーリーはここからスタートしました。
2週間後また電話が鳴り、「まだ、あんな営業を続けたりしてないだろうね?営業されるこっちの身になってみろ…」二回目の説教が始まったそうで、丁寧にお詫びをし電話を一刻も早く切りたかった森光社長の耳に「一回試してみてあげるから送ってみろ」と、最後の最後にその一言を言われたそうです。有名ホテル一度のお試し量は、予想以上に多く一度の取引が本人含め残ってくれたパートさん2人が寝ずに加工しても追いつかない量だったそうです。1.5キロから2キロほどある鯛やカンパチを開き、一本一本骨を丁寧に抜く、形を均一に整えフィーレという切り身にしていく作業で、それでも起死回生を賭け、掴んだチャンスを離さまいと徹夜はあたりまえ、加工した魚を車に載せ、寝ずに東京までノンストップで11時間車を走らせたそうです。
何度か取引をするうちに、みなみ丸で加工された魚は美味い、キレイといわれ実績もつき信頼されるようになり徐々に取引量が安定されてきました。
「今思えば無茶苦茶なことをしたなと。一度は気がついたら病院のベットで嫁が俺の手を握って泣きよった。3回は死にかけたわ」と屈託のない笑顔で話される森光社長は、大きな障害を何度も乗り越えてきた土佐人の「いごっそう」。
「加工業」の先駆者
起業後、早い段階で飲食業に見切りをつけた理由の一つには、家族や子供と過ごす時間を考えてのことと、魚の加工はノウハウを他の誰もまだ持ってなかったそうです。魚そのものを送るだけではどこでも誰でもできる、他の人がやってないことをやろうと考えたとおっしゃいます。まだどこも加工業に力を入れきれていない中、ノウハウや需要を熟知していたからこそ出来た事業転換でした。
高知は漁業が盛んであり、魚種も豊富だが、配送に弱いという弱点があり、空輸であればかなりの量が必要で、陸路は2日、3日と時間がかかってしまします。ただ、ご自慢の野見湾の魚は「カンパチ」「鯛」であり、丁寧に育て、手間をかけた血抜き、神経抜きを獲れたてで加工をすれば、2日、3日と日を置いたほうがうま味が凝縮され、身が柔らかくなり、釣りたて獲れたてより何倍も美味い魚だそうです。
工場にも機械設備を導入し、人材も確保、加工業としても幅広く対応できる会社となってきた頃から、地域の人々の暮らしや地元の漁業を考えるようになってきたそうです。
小さな田舎の漁師町。漁業をするものも養殖するものも小規模事業者がほとんどであり、高齢化、少子化、人口減少といった課題が地方の小さな町には大きな打撃となってきます。
株式会社みなみ丸が、加工業を本格化するあたりから、高知県内の事業者さんより「冷凍」「加工」「配送」などの、協力体制が提案され、ご自身の実績やネットワークを駆使し、それぞれの大まかな協力体制を構築されてきたそうです。
同時に、地元の養殖事業者さんと協力し「カンパチ」や「鯛」も今まで以上に、手間をかけブランディングしてきました。
養殖する魚は全般病気になりやすく、ほとんどの養殖事業者が否応なく薬に頼らざるを得ません。しかし、森光社長と共同開発された「土佐勘八極美」こちらのカンパチは二週間に一度エステを受けさせているといいます。そしてカンパチのご飯は、産地や種類を選りすぐり全て国産で特別なレシピで与えられています。カンパチがエステ?と聞いたときは疑問と驚きでした。エステというのは、カンパチを水洗いすることです。一つの生け簀に何百尾といるカンパチを陸から運んだ何トンという真水を別の生け簀に作ったビニールプールにいれ、生産者さんが生け簀からカンパチをプールに入れ、水洗いをし鱗についた虫を洗い流すという作業です。小規模といえども全体で何千匹、そして何トンもの真水を船で運ぶ作業をし、生け簀にいる魚に満遍なく食べれるように、ゆっくり餌を与えられています。お話を聞いた時、これほどの手間暇をかけられたカンパチは「育ちの良いお嬢様」が連想されました。なるほど…「極美」といわれるだけのことはあり、「土佐勘八極美」の話をする森光社長の顔は娘自慢をするかのような嬉しい表情でした。魚の話をしだしたら止まらない森光社長は、次は浦ノ内湾で育てる「海援鯛」。今度は息子かのように。本来、天然の鯛は水深深くに生息しており、赤や桃色の鱗は日焼けをしていないから。浦ノ内湾での養殖は水深18メートルほどで鯛が日焼けをしてしまうことから、生け簀に日除けテントを張り、鯛が日焼けしないように育てているのだと。通常より少ない量で生け簀で育て、運動量を確保し、ゆっくりじっくり育てることで、うま味がぐっと上がるそうです。
確かに県外のお客様に鯛を提供したところ、「え?これが鯛?めっちゃ甘い!」としきりに驚かれたことがあります。地元民の私も煮ても焼いても刺身でも 飽きない魚は、「カンパチ」「鯛」です。
育ててくれた地元・地域への恩返し
「あの悪さばかりしよった子が、こんな立派になってね」昔迷惑をかけた地域のおじちゃんおばちゃんに言われるという森光社長。
「いつかはこんな田舎を出たいと若かりし頃は何度も思ったけど、ここでしか生きていけん、ここで育ててもらった」その力強い言葉には、これまでのストーリーがあり、現在を感じます。
自分にできること、食育をはじめ地元の子供たちだけではなく、魚離れが進んでいる現代の子供達や、修学旅行生の誘致をし、体験から調理法や実際にその場で捌き食べてもらうことなどを行っていらっしゃいます。
「やりゆうことは小さいことかもしれんけど、少しずつでも魚はおいしい、魚が好きって思ってもらえんとすたれていく一方やき」森光社長のご自身が育った地元、地域産業への恩返しは、生き様通り健気に真っ直ぐ行動をされる方でした。
確かに県外では高級魚といわれる魚がいとも簡単に手に入る高知で、ひと昔まえまでは、魚は買うものではなく、釣るか貰うものの環境で育ってきた私たちには、魚嫌いと言われても想像がつきませんでしたが、近年のコロナ感染症流行で一気に加速したように感じます。
ですが、良い意味で土佐人の諦めの悪さは天下一品です。冒頭にもつかった「いごっそう」は高知の方言であり、土佐の男性の性分を表す言葉で「負けん気が強い」「言い出したら聞かない」「漢気が強い」なのです。
森光社長は「お魚工房みなみ丸」から「株式会社みなみ丸」に転換したときに、会社ロゴデザインに山・海・南地区を盛り込みました。ロゴの南地区は海を向いています。
日々、地元で育てた魚を南地区から世界へ発展させようと「土佐のいごっそう」日々奔走されています。
お問合せ・購入先
高知県の水産加工卸売ならお任せください|株式会社みなみ丸 (minamimaru.co.jp)
※ホームページより購入はできません。
株式会社みなみ丸
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